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戦国武将と幕末志士。

 寒くてまだ初釣りには行っていません。
したがって、こたつに足を突っ込んで読書の時間が増えています。



 若いころは、戦国武将は織田信長、幕末志士は阪本竜馬が好きだった。
物事への合理的な考え方、切り口の斬新さに惹かれたのだと思う。

 しかし、40歳を越えたころからは戦国武将は島津義弘、幕末志士は高杉晋作が好きになっていた。
 ともに潔く、その思いっきりの良さに魅力を感じたのです。
まず島津義弘は、天下分け目の関ヶ原の合戦後のおり、わずか5000人の兵力で、家康本陣近くを通っての【敵中突破】を果たし、それでも島津家の本領は守られ、当時としては珍しい85歳の天寿を全うしている。

 高杉晋作は元治元年12月に、長州の実権を握っていた俗論党を排除するために、少数ながら立ち上がり、結局は長州藩を倒幕へと導いている。

   

 どちらも、多勢に無勢どころか無謀な戦いに見えるのだが。

 この高杉晋作、いろいろと名言を残している。

「おもしろき ことなき世を おもしろく」などが有名だが、「友の信をみるに 死、急、難の三事をもって知れ候」というのがあり、私はよくこの言葉を引用させてもらっている。

 人間と生まれてきた以上、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、それに私は行ってはいないが大学などでの同級生はたくさんできる。

 やがて社会人となり、会社の同僚や関係会社など人脈はますます広がり、次に家庭を持つとご近所付き合いで交流は増えてくる。
 さらに趣味を通して・・・・・・・となると、ものすごい数の方々と交友をもつようになる。
 しかしその中で、朋友、盟友となると、実際は幾人の《》ができるのでしょう。

 高杉晋作が立ち上がった元治元年12月、緒隊の動きは鈍くわずか遊撃隊総督石川小五郎(のちの河瀬真孝)と、下関にいた力士隊の伊藤俊輔(のちの伊藤博文)が賛同しただけで、かって自分が総督だった奇兵隊(総督は赤根武人だが実権は山県有朋が握っていた)は、高杉の呼びかけに動きは鈍かった。

 前出の「友の信をみるに・・・・・・・」は、この時の石川や伊藤のことを言っているのでは?と勝手に解釈している。
 遊撃隊の総督の石川小五郎も、力士隊の伊藤も隊員のことを考えれば、劣勢の高杉と行動を共にするのはためらわれたとは思うが、理念・信念のために生きたのだと思う。

 私は、《り》はりでも「利益・便利」などの《り》ではなく「理念・道理」の《り》で生きていきたいと常に考えている。
 理念よりは便利の方が現世ではずいぶんと役に立つのですが、まぁやせ我慢とでも言いましょうか(^_^;)

 おととい1月7日、例年のごとく七草粥を作って食べました。



(愛犬ぷりんも、ちょんびり食べました)

 ちなみに、広島市近郊ではお正月のしめ飾りは7日に降ろすことが多いようです。
これは地方によって違うのでしょうね。
 








 

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2016/01/09 14:45 | 小難しいお話

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