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私が読んだ本。

 一週間の入院中、退屈になるだろうから・・・・・・と何冊かの本を持ち込んでいました。
その中の一冊に、芥川賞、毎日出版文化賞、菊池寛賞、日本文学大賞など、作家として数々の賞を受賞した、開高 健 氏の【私の釣魚大全】という本もありました。



 その中で、印象に残った部分がありました。
334ページの中の、たった16行半ですが、長い!と感じた人は読み飛ばしてください。

 魚とりはプレイである。魚とりを生業とする人は別だが、それ以外の人はプレイとして魚をとる。
そのことに唯一の救いを求めている人も多い。
魚を殺すことで生きのびていく人、それだけで生きのびていく人も多い。
 そこで、このプレイをフェアかアンフェアかという点からみると、どうだろう。
魚はヒトよりもはるかに古くからこのテラ(地球・土地)の先住者である。
ヒトはずっと遅れてやってきて、魚と同棲し、やがてそれを超え、ついで侮辱しはじめ、誇りに酔い、いまはむしろ好敵手が減りつつあるので狼狽しているが殺生はやめられないという段階である。
 
 ヒトはたいてい魚の食う自然の一片を餌にして魚を釣って技と知恵を誇っている。
または魚の心を読みとったと思って格闘技に満身へ清浄の、いいようのない愉悦をおぼえて、きびしくもあどけない誇りに浸る。

 これを工業の点から見ると、ヒレと顎でしか抵抗できない魚をナイロン糸、ダクロン糸、無数の歯車や液をくぐったあげくの物体に原始のスズコをつけてヤマメを釣っているわけである。
 ナイロンはテグスのように容易には切れないし、ハリは年を追って精妙になる。ヤマメはどうあがいたって逃げようがない。スズコを食うか、チョロムシを食うかは彼女の意志だが、そこから一ミリうえは茫漠、厖大な科学の野であって、怪奇、異様、無秩序にしてかつ精妙、ヤマメにはどう手のつけようもない。

 (中略)ヤマメ、ハヤのたぐいは石器時代からおなじ本能と反射で暮らしてきたのだから、彼女らとほんとうに格闘したとヒトがいいたいのなら、鯉とりまあしゃん(この本の29ページから43ページまで紹介されている、両手と口にくわえて一度に3匹の鯉を手掴みでとる、実在した人物)のようにパンツ一枚で淵へ沈んで手掴みすべきである。それこそ人智と魚智の対等な格闘なのである。
(まだまだ続きます)

 「ここまで我慢して読んだが、それでどうした!」って言われそうですね。
なんか、勝ち誇ったような気持ちで、釣った魚を手にしている自分への戒めのような、世の天狗さんたちに読んでもらいたいような、そんな一文でした。




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2013/12/01 19:55 | 未選択

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