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時間と距離。
 その昔、山口県の周防大島海岸に多数打ち上げられている、海洋ゴミの一種、カキイカダ用のプラスチィック製のパイプは、女竹で作られていました。

 私の知り合いのおじさんが、その切り揃えられた竹の筒を馬車に積んで、海辺まで運んでいました。
そうなんです、私が育った旧山陽道沿いのその町では、まだトラックに混じって馬車が活躍していて、当時一桁の年齢の私は、その荷台の後ろで揺られているのが大好きで、いつもそのおじさんの仕事場に遊びに行っていました。

 年齢も二桁になったころ、隣町との境にある峠から帰るときは、走行中のトラックの後ろに飛び乗り、荷台にぶら下がって、家の近くまで帰ると飛び降りていました。
 これも一種の遊びとして楽しんでいました。

 しかし、数年のうちにトラックから飛び降りるときに、勢い余って転んでしまう事が度々起こりました・・・・?
当時の私たちの頭では、トラックの性能がアップしてきて、スピードが違う・・・・ということにも気が付きませんでした。
 やがて、必ず転んであちこちを擦りむくようになって、自然とトラックに飛び乗るのはやめていました・・・。

 小学校2年のとき、お袋に連れられて東京に行きましたが、何時間経ったかは詳しくは覚えていませんが、翌日の朝富士山を遠めにみたような記憶があり、当時は12時間どころかもっと掛かっていたようです。

 私が20歳ころ、とある都会から帰省するとき【準急ななうら】に乗車して帰ると、7時間半は充分掛かっていました。(現在は2時間も掛からないくらいなのに・・・・・)


 前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
 友人と五島列島に通い始めたころ、博多港からフェリーの太古か清信に乗っていました。
夜中の12時ころ博多港で乗船するとき、翌日の朝食を予約するようになっていて、午前5時ころ平戸に着いたら、予約していた弁当が積み込まれ、手元に届くようになったいました。
 ここで注文するか、何か食料を持ち込むかしないと、船内には【カップヌードル】の自動販売機しか食べ物は無かったのです。

 博多港→平戸口→平戸→生月島→平港(宇久島)→小値賀→若松→と来てやっと目的の中通島の青方に着くのは午後3時ころでした・・・。(当時は、各港でビールなど生活物資をクレーンで吊られたモッコで積み下ろししていて、時間がたっぷり掛かっていたのです)

 それが、現在就航中の太古だと半分以下の時間、6時間半で到着しています。




(平戸大橋をバックに。青いラインと、黄色いラインのフェリーでした。青いラインは清信だったか?)

 清信は現在、フィリピンで活躍しているそうです。

 時間との競争となった現在、博多港からでも6時間半しか掛からないのですが、便利さに比例して大ギスの姿はめっきり少なくなったようです。

 まるでお金で時間を買っているような現在、その余った時間で余裕ができたとは思えないのはなぜでしょう・・・・・?
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2011/07/06 20:09 | 遠征のお話・思い出

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