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甑島回想録 1985年編 パート1。

 大の苦手の理数系よりは、比較的地理や歴史が好きだった私ですが、鴨谷計幸師から「甑島に行かないか」とのお誘いを受けたとき、はっきり言ってどこにあるのか?あまりよくわからなかったのは事実です。

 ただ、その一か月前に串木野からの乗員乗客27人の尊い命を呑みこんだ、瀬渡し船【開洋丸】 事故のニュースは脳裏に焼き付いていましたが。

 1985年4月27~29日、初の甑島釣行が始まりました。
当時の年齢で鴨谷師54歳、同行の大田豊明氏39歳、阪本武司氏35歳、私は39歳。
※鴨谷計幸氏 週刊釣りサンデー別冊【鴨谷計幸のカレイ指南】などの著書で有名
※大田豊明氏 現在全日本サーフキャスティング連盟事務局長、えのみやサーフ会長
※阪本武司氏 現在広島サーフ会長

 早寝早起きの私は、山口県宇部市辺りから仮眠し、熊本辺りで目覚め運転を交代し、八代~水俣と走り、甑島が遠望できる阿久根近くまでやって来ました。

 沖には結構白波が立っていて、ついつい一か月前の開洋丸事故を連想する。
ふと見やれば3人とも白河夜船、これ幸いとこのまま引き返そうかな・・・・・と弱気になる。

 串木野港8時15分発の高速船【シーホーク】に乗船する。
しかしここでびっくり、大きな過ちを犯していたのです。



 上の地図を見ていただいたら分かると思いますが、ひとことで中甑と言っても中甑島のほかに上甑島に中甑港があります。
 私たちは中甑集落を基点に上甑島を釣り歩く予定でしたが、予約を入れた民宿は中甑は中甑でも、中甑島の平良集落だったのです。

 もちろん当時は橋も架かっていなく、どうしたものかと思案投げ首・・・・・・。
民宿のおかみさんが手を尽くしてくださり、チャーター船で平良港から中甑港へ、そのチャーター船のお兄さんが中甑港に車を置いているので、それに乗り換えて上甑を釣り歩いたのです。

 その時のこぼれ話をひとつ・・・・・・・・。
お兄さんが、船からポリタンクを車に乗せ換えているのを見て、「なんと親切なガイドさんだろう、わざわざ私たちのためにお茶を用意してくれたのか・・・・・」と。
 答えはノー・・・・・・・・・、車のラジエーターが水漏れするので、いざというときのためでした(笑)

 


(その折、中甑島の平良港から、上甑島の中甑港へのチャーター船の船上で、左が大田氏)

 結局、あちこち上甑島を車で案内していただいたが、大きくても20㌢程度のキスしか釣れず、中甑島平良港の民宿へ。



(中甑島平良港)

 ここでもこぼれ話をひとつ・・・・・・・。
焼酎の本場鹿児島とあって、お客さんの大半が注文するのは焼酎のようで、我々4人が「たちまちビール4本!そのあと、また4本」と言ったので、おかみさんは大慌て・・・・・・・、近所の酒屋さんに走ったのか?それでも同じ銘柄が揃わずに、サイズもメーカーもバラバラのビールが出てきたそのほほえましい光景に、離島に来た感を味わいました。
たちまちとは、広島弁でとりあえず・・・・・のような意味。

 こうして、初見参の甑島での一日は暮れて行きました。
二日目三日目はまた・・・・・・。



(週刊釣りサンデー昭和60年6月2日号記事)

 1985年当時高速船は、里、中甑、鹿島、長浜、手打の各港に寄港していました。
普通便の鯨波丸なら平良港にも寄港していましたが、このときは平良の民宿差し回しのチャーター船で送り迎えしてもらいました。



(今でも大事に持っている1985年の甑島航路の時刻表、普通船とは鯨波丸です。)



(こちらは現在の航路と時刻表です、現在の高速船寄港地は里と長浜だけです)


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2014/07/10 20:05 | 遠征のお話・思い出

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