中国新聞社編の《中国山地[上]》の初版は1967年2月発刊。
下巻は1968年2月発刊の本がある。
バブルなど予測もつかない時代の発刊だが、記者はそれとなく過疎化に向かっている中国山地の暮らしの隅々まで記録して歩いた実情が掲載されている。
この本が発刊されて10年ちかくのち、私が鴨谷師のお供で渓流釣りに通った奥三段峡や、島根県匹見町の奥部はとっくに廃村になって、師から「これは塩の道よ」と教えられた山道は、モータリゼーションの最っ盛りの中、獣道とも思えぬ有様になっていた。
広島県吉和村の中津谷から、島根県匹見町の広見への国道(酷道)488号の草に覆われた路傍には、文字も読めとれないような墓石がポツンと・・・・・・・。
昔の鑪跡の集落でもあったのだろうか・・・・・・・・。
私の見慣れた中国山地、いくつもの廃村を見てきた。
また、廃村までとは言わないものの、私がずっと見続けてきたなかに、石垣でも野面積みではなく切石積みの立派な豪農屋敷ほど、確率的に廃屋になっていることが多いのを不思議に思っていたものだ。
当時は、なぜ?土地持ちの豪農屋敷なら修繕維持などは容易だろうに・・・・と思っていた。
しかしよくよく考えてみたら、中国山地の田舎の豪農ほど息子に高等教育を受けさせ、やがて都会で医師や役人、文豪などになった跡取り息子は帰郷することなく、家は荒れるに任せる。
そんな集落でも反対に、小さな田畑を受け継いだ長男は、ご先祖の社稷を守るために一生懸命・・・・・。
却って他人の飯を食ってくるようにと、口減らしで追い出された次男坊三男坊の方が、都会の好景気にあずかって良い暮らしをしている・・・・・と言うのが、昭和の終わりの世相だったようだ。
この本を読み返すと、そんな人間模様がまざまざと浮かんでくる。
と言っても、昭和後半や平成生まれの人たちには、こんなお話は遠い遠いお国のお話にしか聞こえないでしょうね・・・・・・・。