川内駅発7時50分、川内港へ8時20分着の電気式シャトルバスを降り、一年ぶりの川内港へ歩を進める。
甑島への乗船券、3,380円なり、ふるさと旅行券3枚を使用。
竹屋さんでの二泊分の7枚と合わせ、これで10枚使用したが、まだ2冊と3枚余っている!
8時50分川内港発の《高速船 甑島》は、快適な運航を続けていて、途中では船に驚いたトビウオやダツのような長い魚も水面を飛んで逃げている。
昔五島に通っているころ、フェリーに驚いたトビウオは、フェリーと平行に何匹もが数10mも飛んでいたものだが、今回は一匹あるいは二匹だけが、それも高速船と直角に逃げている。
やはり船のスピードのせいなのだろう・・・・・・・と勝手に判断。
9時45分、いよいよ上甑島の里港へ上陸。
ここでは《幸せボンビーガール》というテレビ番組で有名な、女優の柴田美咲ちゃんが町おこし協力隊員として頑張っている。
(高速船から見える方には、ようこそ甑島へと書いてあり、見送る時には裏返すと上写真のようになる)
右側が、柴田美咲ちゃん。
私はミーハーではないのですが、クラブ員が「小池さん、よく甑島に行っていますが、幸せボンビーガールって知っていますか?」などと言うので、上甑に行って素通りもなかろう・・・・・・と一緒に写真も撮らせてもらいました(あくまでクラブ員に見せるため)。
さてさて今回のお目当ての鹿の子ゆり、いつもは6月頃の上陸なので、蕾しか見ることはありませんが、今回は花盛り(咲き過ぎもあり)!!
(里集落の西の浜に咲く鹿の子ゆり、これは濃色タイプ)
(並色の花の蜜を吸う、蛾の一種オオスカシバ)
(白い鹿の子ゆりの蜜を吸う、モンキアゲハ)
(上甑島から中甑島への途中の断崖に群生する鹿の子ゆり)
(トンボロ地形の里集落遠景)
(玉石垣が整然と積み上げられた、里の武家屋敷通り)
封建時代、鹿児島には《外城》と言われる制度があり、《麓》と称される外城が50いくつもあり、それぞれの石高に合わせて武家屋敷群が設けられていた。
知覧や出水の武家屋敷群は有名ですが、ここ上甑島の里や、下甑島の手打にもある。
(上甑島の名勝地 長目の浜)
と、観光ばかりでもいけないので、ついでのキス釣りを・・・・・・・。
しかし、3年前に27㌢を含め23~24㌢を釣ってはリリースした桑の浦で釣れたのはチャリコのみ・・・・・・、暑いのと見込みが無いのとで3投で移動を決める。
(こんな素晴らしい場所でキスがいない方がおかしい???)
次に行ったのは、何年か前やはり良型釣ってはリリースした小島。
ここでは20数年前には29㌢も釣っている・・・・・・・・、が本日はこんなお魚が。
(ダブルで釣れてきたのはオオモンハタ?とカサゴ)
(やっとこさ・・・・で釣れたのは22~23㌢)
あまりにも釣れないし暑いので、竿は納めて懐かしい島内を走りまわることに。
(中甑島から下甑島への架橋風景)
まだ完成には3~4年は掛かるそうですが、これが完成すれば甑列島の有人島はすべて陸続きになるわけです。
発展につながるのか、はたまたストロー現象で島外移住が増えるのか・・・・・・・。
昼食は、いつもの《時春》さんで。
里港のすぐ前、ひとつ裏の筋にあり少し分かりにくい場所ですが、味は折り紙つきです!
早めに、30日の宿えびす屋さんに帰ってひとっ風呂!
(里での定宿、えびす屋旅館)
(えびす屋旅館での夕食)
こうして30日の夜は更け、いよいよ明日31日は下甑島へ・・・・・・・・・。
予定どおり、7月28日午前7時37分広島仕立ての新幹線さくらに乗車。
実は、上五島行きや北九州の姉のところに行くため、小倉や博多までは何度も乗っていますが、博多以西は今回が初体験。
そこで今回いろんなことを感じました。
まず車内放送、山陽新幹線では日本語のアナウンスのあと、英語で「・・・・・・・・・・サンキュー」で終わりですが、九州新幹線は韓国語に中国語まで流れてくる。
誉めたいのは車内販売のお嬢さん。
山陽新幹線ではすべての方が、進行方向へ前向きでワゴンを押しながら販売しながら歩いているので、ちょっとよそ見をしていたら欲しいものがあっても「もしもし・・・・・・せめて・・・・・・」と後姿を眺めているだけ。
ところが九州新幹線では、お客さんとつねに顔を合わせられるよう、後ろ向きでワゴンを引っ張っている。
さぞ歩きにくいことだろう・・・・と思いながらも感心を通り越して感嘆しました。
さてさて10時09分、川内駅に予定通り到着。
甑島に渡るには夕方の便しかないので、28日と29日に宿泊するお気に入りの川内高城温泉行きのバスを待つ。
次に予定の無い生活とはまことに贅沢な話で、駅前で鹿の子ゆり愛好会の丹精込めた鹿の子ゆりを眺めたり、次々とやってくるバスを眺めている100分は全然気にならない。
(肥薩オレンジ鉄道の電車もやって来ました)
そうそう、その前に《薩摩川内市観光協会》に寄り、「ふるさと旅行券」を3万円分購入する。
この券は、10000円で13000円分使える・・・・という、まことにありがたい券です。
さてさてお気に入りの川内高城温泉、なかでも私のお気に入りは《竹屋》
もともとは自炊の湯治客相手の旅館とのことでしたが、今年から昼食だけできるようになり、おいおい夕食も考えておられるとのこと。
この静かな旅館、部屋を開けると内湯のかすかな硫黄のようなにおいがただよい、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。
少し熱めの湯船に浸かると、すぐそばを流れるせせらぎの音が妙に落ち着き、開け放たれた窓からは、川向こうにある散髪屋さんのサインポールがくるくる回っているのが見え、ピースの又吉さんくらいの文才があれば、艶っぽい小説の一つは書けそうな雰囲気です。
(竹屋本館から歩いて一分くらいのところには岩風呂が。宿泊者はこちらも入り放題)
29日の朝、4年前下甑島の民宿《道》さんでお近づきになった薩摩川内市の方のご案内で、薩摩川内市と阿久根市をあちこちご案内いただいた。
(東郷の藤川天神境内にある西郷隆盛の愛犬《ツン》の銅像)
薩摩犬ですが、私の好きな甑島にいた甑山犬の血も入っているそうで、ウサギ猟犬として類まれなる才能を発揮したらしい。
(この姿を見ると、東京上野公園の犬が弱々しく見えます・・・・・・・)
(阿久根市大川、鹿の子ゆりが咲き乱れるなかを走る、肥薩オレンジ鉄道食堂車)
というわけで、28日29日と川内高城温泉に連泊しました。
いよいよ30日は、川内駅午前7時50分発の電気バスで川内港へと向かいました。
(原子力発電や、風力発電の風車12基、そして小さいながらも水力発電、太陽光なども多く、電力の街らしい、電気バスです)
(薩摩川内市高江からみる風車12基の建つ柳山とその周辺の山々)
(薩摩川内市藤川にある、水力発電用螺旋式水車)
「明日から行こうか・・・・・?あさってから行こうかぁ・・・・・・?」と独り言のようにつぶやいた。
するとカミさん「どうせ何を言っても聞くような人じゃないけぇ、好きなようにしたら」のあと、「まったく自由人なんじゃけぇ・・・・・」と小さな声でぽつり。
さっそく広島駅へと走り往復の切符を!(帰ってみると、テーブルの上には小遣いが置いてあった・・・・・・・・・・・・・)
(明日、広島から薩摩川内までの特急券と乗車券)
(8月2日、薩摩川内から広島への切符)
今年こそ、青い空をバックに秀麗な開聞岳が見られるかな・・・・・・・。
今年こそ、少し満開過ぎたが可憐な鹿の子ゆりが見られるかな・・・・・・。
今回の予定は
28日、7:37 広島発さくらに乗車 10:09川内駅着 川内高城温泉 竹屋(泊)
29日、いったん薩摩川内市に出て、あとは川内高城温泉で腰痛のための湯治(泊)
30日、7:01のバスで高城温泉発 8:50川内港発高速船甑島乗船 上甑島 えびすや(泊)
31日、9:50の高速船甑島に乗船 10:25 下甑島着 長浜 民宿《道》(泊)
1日、10:30長浜港発高速船甑島乗船 11:40 川内港着
夕方、いつもお世話さまになっている薩摩川内市の方と一献傾ける予定 《東横イン》(泊)
2日、駅レンタカーを借りて、鹿児島~指宿~開聞岳~枕崎~加世田~薩摩川内
夕方の新幹線で広島へ・・・・・・・。
出発準備完了!!
一応、キャスティズムを一本だけとクーラーは持参するが、本気出して釣るのやら・・・・・。
心配なのは愛犬ぷりんの散歩。
こやつは超能力があるのか?我が家では「ぷりんの祟り」「ぷりんの呪い」いう言葉が、まことしやかに囁かれている。(ぷりんの呪いとか、ぷりんの祟りで検索してみてください)
カミさんの田舎で、河原に連れて行けとせがむぷりんを置いて出て、結構なサイズのアマゴを釣ったので、当時釣り欄を持っていたスポーツ新聞に出そうとしたが、原因不明のカメラの故障・・・・・、原稿はボツに、など4~5回祟りがありました。
(ぷりんさま、どうか何事もなく遊んでこられますように・・・・・・)
庭に、アブラゼミが遊びにきていました。
ここで一句
『鳴くよりも 思いはこひし 鳴かぬセミ』
結局、【中甑】の存在すらあまりよく分からなかった一行は、上甑島と中甑島ではあまり釣り場も把握できないまま、4月28日上甑島の中甑港を9時35分発、下甑島長浜港10時15分着の高速船シーホークに乗船するため、チャーター船で中甑島平良港を出発しました。
長浜港に着いた一行は、港の右手に広がる砂浜を目指して一目散。
荷物は下船した場所に置いたまま・・・・・・・・。
貧乏性の私は、荷物が気になるので荷物の番を兼ねて、船を降りたその場所で釣り始める。
一投目から23~24㌢の良型が竿先を大きく引き込む。
試しに置き竿にしてみると、「ガラガラっ」と大きく竿を転がして28㌢が、続いてやはり26㌢以上のランクものが・・・・・・。
この調子だと、砂浜に行ったみんなは、さぞかし引き釣りを楽しんでいることだろう・・・・・と一人気を揉む。
小一時間して、みんな帰ってきたが顔色が冴えない・・・・・。
その時の鴨谷師の記事を引用してみよう。
「鹿島に寄港して長浜着が10時15分、港の北側に長い砂浜があって、キスのひそむ藻が点々。。ここまで岸壁がダメだったのでと、竿一本で砂浜に散開。プルプルッというアタリはミニギスかと思ったら15~20㌢のオキエソがダブル、ダブル。」
「このときまでは、甑くんだりまできてこのザマは、と大いに後悔している最中だったが、船着き場に戻ると一人残った小池君が「型の良いのが釣れるョ」と目の前で釣りあげて見せたのが27㌢オーバー。しかも丸々と肥って片手ではつかめない。」
と書かれています。
このあと30㌢オーバーを2匹追加した私は、竿も持たずに鴨谷師のお供で、町営バスに乗り手打の港見学へ。
以前熊本でのハゼクチ釣りに行った時も、鴨谷師から「せっかく熊本に来たのだから、殺生ばかりしていないで、観光に行って旨いものでも食おう」とお誘いを受け、水前寺公園へ行って馬刺しなどを食べたこともあります。
(熊本の水前寺公園で、鴨谷師と私)
あまりガツガツ釣りばかりしないことを、師から習ったのが今に生きていて、今回のようにまったく釣れなくても、また甑島に行きたいなぁ~・・・・・と思うのです。
パート1で、わざわざ当時の年齢を書いたには次のような訳があります。
手打港の防波堤を歩いていると、波止と波止の隙間が20~30㌢くらい開いた箇所がありました。
そこで、鴨谷師が足元を見ているので、「どうしたんですか?何かいるんですか?」と聞きました。
すると「いや、どうやって渡ろうか?と思っとるんよ」と言われ、15歳違いの鴨谷師と私とでは違うのかな・・・・・・と不思議に思ったのが今でも忘れられません。
それから2年後、ダイワの【ザ・フィッシング】ロケで上五島にお供をした時、鴨谷師の滑舌がほんの一瞬ですが、口ごもられたのもよく覚えています。
残念ながら、それから3年後の平成元年に病にかかられましたが、それらは前兆だったのではないか・・・・・・と、師の思い出を私の健康の不調と比較させていただいています。
話が横道に逸れましたが、第一回目の甑島釣行はこのようにして終わりました。
鴨谷師と阪本さんは、この年の6月にも再度甑島に行かれたので、鴨谷師にお願いをして甑島特有の【サツマチドリ】を2万円分買って帰っていただきました。
(下甑島固有種のサツマチドリ)
次に私が甑島に渡ったのは、1985年9月に落ちギスはどうだろう・・・・・とのことで行きました・・・・。
大の苦手の理数系よりは、比較的地理や歴史が好きだった私ですが、鴨谷計幸師から「甑島に行かないか」とのお誘いを受けたとき、はっきり言ってどこにあるのか?あまりよくわからなかったのは事実です。
ただ、その一か月前に串木野からの乗員乗客27人の尊い命を呑みこんだ、瀬渡し船【開洋丸】 事故のニュースは脳裏に焼き付いていましたが。
1985年4月27~29日、初の甑島釣行が始まりました。
当時の年齢で鴨谷師54歳、同行の大田豊明氏39歳、阪本武司氏35歳、私は39歳。
※鴨谷計幸氏 週刊釣りサンデー別冊【鴨谷計幸のカレイ指南】などの著書で有名
※大田豊明氏 現在全日本サーフキャスティング連盟事務局長、えのみやサーフ会長
※阪本武司氏 現在広島サーフ会長
早寝早起きの私は、山口県宇部市辺りから仮眠し、熊本辺りで目覚め運転を交代し、八代~水俣と走り、甑島が遠望できる阿久根近くまでやって来ました。
沖には結構白波が立っていて、ついつい一か月前の開洋丸事故を連想する。
ふと見やれば3人とも白河夜船、これ幸いとこのまま引き返そうかな・・・・・と弱気になる。
串木野港8時15分発の高速船【シーホーク】に乗船する。
しかしここでびっくり、大きな過ちを犯していたのです。
上の地図を見ていただいたら分かると思いますが、ひとことで中甑と言っても中甑島のほかに上甑島に中甑港があります。
私たちは中甑集落を基点に上甑島を釣り歩く予定でしたが、予約を入れた民宿は中甑は中甑でも、中甑島の平良集落だったのです。
もちろん当時は橋も架かっていなく、どうしたものかと思案投げ首・・・・・・。
民宿のおかみさんが手を尽くしてくださり、チャーター船で平良港から中甑港へ、そのチャーター船のお兄さんが中甑港に車を置いているので、それに乗り換えて上甑を釣り歩いたのです。
その時のこぼれ話をひとつ・・・・・・・・。
お兄さんが、船からポリタンクを車に乗せ換えているのを見て、「なんと親切なガイドさんだろう、わざわざ私たちのためにお茶を用意してくれたのか・・・・・」と。
答えはノー・・・・・・・・・、車のラジエーターが水漏れするので、いざというときのためでした(笑)
(その折、中甑島の平良港から、上甑島の中甑港へのチャーター船の船上で、左が大田氏)
結局、あちこち上甑島を車で案内していただいたが、大きくても20㌢程度のキスしか釣れず、中甑島平良港の民宿へ。
(中甑島平良港)
ここでもこぼれ話をひとつ・・・・・・・。
焼酎の本場鹿児島とあって、お客さんの大半が注文するのは焼酎のようで、我々4人が「たちまちビール4本!そのあと、また4本」と言ったので、おかみさんは大慌て・・・・・・・、近所の酒屋さんに走ったのか?それでも同じ銘柄が揃わずに、サイズもメーカーもバラバラのビールが出てきたそのほほえましい光景に、離島に来た感を味わいました。
※たちまちとは、広島弁でとりあえず・・・・・のような意味。
こうして、初見参の甑島での一日は暮れて行きました。
二日目三日目はまた・・・・・・。
(週刊釣りサンデー昭和60年6月2日号記事)
1985年当時高速船は、里、中甑、鹿島、長浜、手打の各港に寄港していました。
普通便の鯨波丸なら平良港にも寄港していましたが、このときは平良の民宿差し回しのチャーター船で送り迎えしてもらいました。
(今でも大事に持っている1985年の甑島航路の時刻表、普通船とは鯨波丸です。)
(こちらは現在の航路と時刻表です、現在の高速船寄港地は里と長浜だけです)