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第二音戸大橋(仮称)仮設される。
  昨日、4月24日の朝6時からクレーン船で吊り上げた、第2音戸大橋(仮称)の中央部分が、10時50分ころに固定されたとのこと。

 ここ音戸の瀬戸は海上交通の要衝で、今では広島から愛媛などのフェリーやスーパージェットなどのほか、多くの船舶が行き交う約80mの狭い海峡で、干満の潮流は約10kmとのこと。

 この音戸の瀬戸はもともと今のような姿ではなく、今を去ること900年くらい前、平清盛が一日で掘削したと伝えられている。
 私が幼い頃、この瀬戸の本土側の警固屋に住んでいた祖母に聞かされた話では・・・・・・・

 宮島にそれは美しい女官がいて、それをみそめた平清盛に、「音戸の瀬戸を一日で切り開いてくれたら、あなたの彼女になりましょう」と言ったとか。
 そこで、平清盛はみんなを励まして工事に掛かったが、難工事のために刻々と時は過ぎ、やがて日が沈み始めたそうです。
 それを見た平清盛は、扇を開き沈みかけた太陽を沈まないように招いたそうです。(その日招きの像が警固屋側に建っています)

 そのように、何度も何度も沈みかけたお日様を、扇で招いては昇らせて、作業を続けたそうです。
我が家には、その扇だといわれるボロボロになった古い扇が残されていましたが、私はそのころから「確かに古いものだが、平安時代はなかろう・・・」と、本気にはしていませんでしたが・・・・・

 約束どおり、沈み行く太陽を招いてまで苦労して、日没までに掘削を終えた平清盛は、喜び勇んで宮島の美しい女官のところに行ったそうです。
 ところが!!その女官の正体は大きな蛇で、宮島の大鳥居に巻きついて平清盛を待っていたそうです

 大慌てで船を漕ぎ、平清盛は大蛇に追いかけられながら音戸の瀬戸まで逃げましたが、今にも追いつかれそうになりました 
 そこで平清盛が海面を睨みつけると、今のような渦潮・急流が起きて大蛇は急流に流され、すんでのところで平清盛は命拾いをしたそうです。
 現在の音戸の瀬戸の渦潮を、【清盛さんの睨み潮】というそうです。

 このお話には後日談があり、清盛が臨終の際に物凄い高熱に冒されたと史料にありますが、これはお日様を招いた祟りだとのことです・・・・・。

 以上のお話は、私の小さい頃祖母に聞いたお話なので、多少勘違いなどがあるかもしれませんがお許しを。 
 

 今回、【現代の大工事】も、一日でやってのけた・・・・というお話に感動して、私の幼い頃聞いた昔話を思い出して書いてみました。

 

(2011年4月25日月曜日の中国新聞一面より)




(こちらの写真は、1961年に架けられた音戸大橋。)


【我が家の花だより】

 大正十四年に、天然記念物に指定された【エヒメアヤメ別名誰故草)】が一輪花を咲かせました。

 この花は気難しく、なかなか育てにくい花です。
今から20数年前、多く自生していると言われた備後地方のある町の人から、指しわたし30㌢くらいの大株をいただいたことがありますが、いちども花を見ることなく【忽然】と・・・・といった感じで枯れてしまいました。



(2011年4月25日、一輪花を咲かせたエヒメアヤメ)

 今日は、昼過ぎの満潮にかけて、宇品港にキスの引き釣りに行こうかな・・・・と考えましたが、急に吹き荒れ始めた西の風に、落ち着いて釣りができそうもない・・・・と考えて取りやめました。

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2011/04/25 20:20 | 我が家の花ごよみ

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