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しばらくは、また仕掛け作りに励みます・・
 昨日は私の好きな場所の一つ、島根県益田市の持ち石海岸の西端、喜阿弥川河畔から8時40分ころから始めたが、一色あたりでのピンの猛襲に「参りました!」で、2投だけで移動した。
 移動前の8時50分ころ、萩石見空港着の飛行機が眼前に現れた。竿を置き、カメラを向けてみたが写真でお判りいただけただろうか・・・。

(萩石見空港に着陸体勢に入った航空機)

 次の戸田小浜、沖合にできた沈めブロックの影響か、5~20mくらいだった砂浜がたった一年と少しで10~50mくらいになっている。このままだと、沖の沈めてあるブロックまで砂地が続くのでは?と思うくらい。

(砂浜が大きく張り出した戸田小浜海岸)


(逆方向から見た、数年前の戸田小浜海岸。上の写真との違いがおわかりいただけるでしょうか?今度、この同じ場所から写真を撮ってみます)

 余談だが、ここ戸田小浜駅から南に入ったところに、かの有名な万葉歌人の『柿本人麻呂』の生誕の地といわれる、戸田柿本神社がある。

(戸田柿本神社入り口の看板)

 終焉の地となるとややこしく、梅原猛は著書「水底の歌(みなそこのうた)」で、益田市沖に存在したといわれる鴨島をその地としている。
 かたや、斉藤茂吉は島根県の山峡の地、湯抱(ゆがかい)の鴨山としている。
 これは、柿本人麻呂の自傷歌『鴨山の 磐根し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあらむ』(注:妹は妻のことを指す)
からの論争ではあるが、例えば今から約670数年前の1332年、隠岐の島に流された後醍醐天皇の御在所が、島前と島後に二つ存在し、どちらが正しいのか判らないくらいなので、没年が平城遷都前後の710年ころの柿本人麻呂の終焉の地は永遠の謎だと思う。
 ただ、万寿三年の大津波により水没したと言われる鴨島から、柿本人麻呂の木像が流れ着いたと言われる松崎にあった柿本神社などから考えると、益田沖にあったとされる鴨島が、それにふさわしい場所だと私は浅学ながら考える。(閑話休題)

 さぁ、仕掛けが少なくなってきた・・・・、がんばって作らなくては。
 ただ、もう10本バリは当分作るのは止めて、6本かせいぜい8本でキスと相まみえることとします。

 来週は瀬戸内の周防大島か、山陰でも東に走って大田市あたりの何ヶ所かを釣り歩く予定です。

 
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2008/09/17 20:13 | 未選択

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